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何気なく

何気なく

 

何気なく見ただけであるにせよ、

一度でも目にしたものは必ず見た事を覚えてゐなければならぬ。

何故って、今生の縁として、多生の縁として

眼にしてしまつたものは必ず死後までも覚えておかなければならぬ。

それは此の世を生きるものの最低の礼儀だ。

さうしてやつと吾は吾として認識出来るのだ。

これが吾と他との相容れない線引きなのだ。

この線引きこそが他を思ふといふ事のアルケー、つまり始まり。

そして、アルケーなしに吾の縁の出立はないのだ。

そこでやがて来る死に備へて何かをすることは要らぬお世話なのだ。

死を迎えるにせよ、

それは日常を何の衒ひもなく生き切るといふ事以外何物でもない。

死を前にして生者たる吾は何も特別なことをする必要がない。

死を前にして、吾はただ、ものを喰らひ、寝、そして日常を生活するだけでいいのだ。

さうして吾は死を受容するのだ。

 

さて、お前は何時も吾を嘲笑ってゐるが

さうしてゐられるのも今の内だけだ。

他を嗤へる存在は賤しく醜悪な存在でしかない。

嗤ふのは吾に対してのみでしかない。

自嘲するといふ行為こそ、

自慰行為に似た吾の快哉なのだ。

そんなとき、吾は「わつはつはつはつ」と哄笑し、

己が存在を堪能すればよいのだ。

 

なあ、何気なく見てしまったものこそ、

脳裡から離れぬものだらう。

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