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邂逅

邂逅

 

既に《吾》に邂逅してしまった《吾》ほど哀しい《もの》はない。

何故って、《吾》が《吾》において既に断念しなければならないからさ。

断念するとは此の世に対峙することでも背を向けることでもなく、

《世界》の為すが儘に《吾》もまた、変容する事を強要される事に外ならない。

 

ちょっとでも《吾》が摂動しよう《もの》ならば、

誰も遁れられぬ天罰が待ってゐるのだ。

 

業火に燃える《吾》を《吾》はdéjà vu(デジャ・ヴ)として認識してゐなければならないのだ。

それでも《吾》は《吾》である事に対して一歩も退いてはならぬ。

それが業火に燃える《吾》に対する最低限の礼なのだ。

 

仮にそこで《吾》から撤退する《吾》がゐるならば、

そいつは既に《吾》を他人に売りを渡した《悪魔》の眷属でしかない。

自らを自らにおいて断念した《もの》のみ《吾》は《吾》に対して問へるのだ。

 

――何が《吾》なのか。

 

と。

さうして初めて《吾》は《吾》を礼節に則りもてなせるのだ。

そこには厳しい《存在》に対する謙虚さのみがあるのみで、

さうして《吾》に断念した《吾》は、分を弁へる。

分を弁へた《吾》のみ、《吾》が発する祝詞の如き言葉を理解し、

《吾》は独りその針の筵の上の如き《存在》の《吾》に対して礼を尽くせるのだ。

そこに憐憫は禁物だ。

それこそ《吾》に対する非礼でしかない。

 

そのやうな儀礼なく、《吾》が《吾》に阿る愚劣は、

無間地獄への近道なのだ。

 

果たせる哉、《吾》は《吾》にあらず、《吾》において《吾》を断念することの理不尽を

《吾》が眦一つ動かさずに為す事は、至難の業であり、

ところが、《吾》はそれをいとも簡単に成し遂げるだけの熟練を《吾》は受精のその時から既に手にしてゐなければならないのだ。

それが生きるといふ事の全てなのだ。

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