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重い足取りでも

...

重い足取りでも

 

ぐしゃりと空に押し潰されるやうにぶっ倒れ、

意識はしつこい睡魔に呑み込まれ、

それでも立たうと気力を振り絞り、

重い足取りで一歩一歩と前へと進もうとするが、

最後は案山子の如くに大地に脚を差し込んでも立ち上がるその姿勢のみ、

おれはおれに対して許せる傲慢な存在なのだ。

 

追ひ込まれれば追ひ込まれるほどに

執拗にそれに抗ふ馬鹿なことをするおれは、

もう逃げ道がないところでも、

まだだ、と無駄な足掻きに一縷の望みを託しつつも、

それが儚い事とは知ってゐるおれは、

当然ぶっ倒れて卒倒する事になるのだが、

それでも藁をも掴む思ひのみで、

前のめりにぶっ倒れるのを本望としてゐる。

 

それが何の足しになるのかなどとは全く以て知らぬ存ぜぬが

さうせずには、おれがおれであることが恥辱であり、屈辱なのだ。

 

――だが、さうせずともお前は既に恥辱に堪へられぬではないか、けっ。

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小説『蘖』~12月15日迄公開~

蘗(ひこばえ)

      積 緋露雪著

 

既に薪を使ふ日常を已めてしまった現代において雑木林は、その落ち葉を田畑の肥料に使ふ以外にその存在意義を失った感があるが、それを映すやうに大概の雑木林は荒れてゐるのが当たり前の風景となって仕舞った時代に生まれ落ちてしまった彼にとって、しかし、雑木林の中を逍遥するのは、日々新たな発見に出くはすので、彼にとっては荒れてゐるとはいへ、雑木林を逍遥するのは止められないものの一つであった。

さうした或る日、彼は大きな虚(うろ)が根元近くにある一本の櫟(くぬぎ)に出くはしたのであった。

――あっ、零だ!

と、彼は思はず胸奥で叫んだのであった。彼は樹の虚を見ると何時も

――零だ!

と感嘆の声を秘かに胸奥で上げては、

――樹もまた《吾》同様《零の穴》をその内部に持ってゐる……。

と、何とも名状し難い感慨を持ってじっと樹の虚を眺めることになるのであったが、つまり、彼にとって樹の虚は或る種の親近感を彼に覚えさせるものの一つであったのである。

虚の出自は零の出自に或るひは似てゐるのかもしれない。その初め一本の細い幹でしかなかった櫟等の広葉樹は、十年から二十年かけてしっかりとした幹に生長を遂げると、薪か炭の材料としてその一本の幹は切り倒される運命にあるのが、雑木林に存在する広葉樹の常であった。

そして、眼前のその虚を持つ櫟の樹もまたしっかりとした樹に生長を遂げると《一》たる幹は薪か炭の材料になるべく切り倒された筈である。しかし、櫟等の広葉樹は主幹を失ったとはいへ死することはなく、かつて存在した《一》たる主幹の切り株から蘗(ひこばえ)の小さな小さな小さな未来の幹たる芽を出すのであった。さうして再び立派な幹に生長を遂げた蘗の幹もまた薪か炭の材料として切り倒された筈である。しかし、当然櫟の樹は再びその切り株から小さな小さな小さな蘗の芽を出した筈である。けれども、時代はBiomass(バイオマス)の時代から石油の時代に移り行き、その櫟の樹は長くそのまま放置されてしまった筈である。さうして《一》たる幹の切り株の跡は虚となって、つまり、「零の穴」となってその櫟は生き続けることになったのであらうといふことは想像に難くない。虚とは、大概、《一》たる幹を人工的に切り倒され、その切り株がその失った《一》たる幹の存在を埋めるべくその切り株から蘗が芽を出したその証左でもある。

また、《零の穴》とはいへ、虚は様々な生命の揺り籠でもある。虚は、或る時は鳥の巣となり、或る時は動物の寝床となり、そして昆虫の棲処となり、と、虚はその様態を変へ生命の揺り籠になるのである。

さて、其処で此の世に存在する森羅万象は、それが何であれ、《吾》や《他》や《主体》や《客体》等の在り方を暗示して已まない《もの》であると看做してしまふと、蘗もまた《存在》の在り方を、つまり、《吾》や《他》等の在り方を暗示する《もの》に違ひないのである。

《吾》は《吾》の内部に《零の穴》たる《虚》、それを《反=吾》と名指せば、《吾》の内部には《零の穴》若しくは《虚》たる《反=吾》がぽっかりと大口を開けて厳然と《存在》する《存在》の在り方も在り得る筈である。それは喩へると、主幹が折れてしまふと必ず枯死する或る種過酷極まりない《世界》に《存在》し、蘗の出現を許さない針葉樹的な《存在》として、一本の主幹のみを頼りにして此の世に屹立し生きる《存在》の在り方がある一方で、一度や二度の《吾》といふ主幹が折れようが、再びその折れた主幹の跡から蘗なる《吾》が芽を出すのを許容する何とも慈悲深い《世界》に屹立し生きる《存在》の在り方もある筈である。そして、《吾》とは、蘗の出現を許さない針葉樹的な《存在》しか存続出来ない過酷な《世界》にありながら、最早、不意に《吾》たる主幹を何かに折られた《存在》でしかなく、それでも《存在》することを必死に而も喜んで欣求する蘗たる《吾》を芽生えさせるといふ、或る種の《インチキ》を成し遂げてしまった《存在》しか此の世は最早受け入れなくなってしまったやうに彼には思へて仕方がなかったのであった。しかし、さうなると、《吾》には《零の穴》若しくは《虚》がぽっかりとその大口を開けて《存在》してゐる筈で、彼には如何してもその《吾》の内部の《零の穴》若しくは《虚》ではまた《吾》ならざる《反=吾》の《存在》を棲息させ育む《存在》の揺り籠として《吾》には厳然と《存在》してゐるとしか思へないもまた事実なのであった。

――《存在》の《零の穴》若しくは《虚》には何が棲むか……。

と、彼は己に問ひを発するのであったが

――へっ、《吾》ならざる《異形の吾》に決まってらあ――。

と、せせら笑ふ《異形の吾》が不意にその顔を出すのであった。

そもそも《吾》とは厄介な生き物である。耳孔、鼻孔、眼窩、口腔、肛門、生殖器等に代表される《主体》の各々の細胞にすら無数に開いてゐる穴凹と同様、それが《吾》の内部の何処かは解かりかねるが、しかし、《吾》の内部には厳然とその内部の闇にぽっかりと開いた《零の穴》若しくは《吾》の《虚(うろ)の穴》が《存在》してゐるとの確信がなければ

――俺は俺だ!

と、《吾》に対しても《他》に対しても《世界》に対しても申し開きが出来ぬ情けない《存在》として《存在》するのである。一方で、蘗の生長によって主幹を喪失しても生き永らへた広葉樹は、けれども、その内部に《存在》してしまふ《虚の穴》は己の何《もの》によっても埋められずに《他》の生き物の生命の揺り籠として樹以外の《もの》をその《虚の穴》で育むといふ、或る意味《吾》の意思ではどうにもならぬ《存在》の在り方を、その樹が望むと望まずとに拘はらず強要されるのであり、また、《存在》の有様の本質がさうである故に、《吾》は《他》や《世界》と辛うじて連関するに違ひないのである。

さうすると、彼の頭蓋内の闇、即ち五蘊場に不意に現はれる《異形の吾》共は、《吾》の内部にぽっかりと開いた《零の穴》若しくは《吾》の《虚の穴》をその棲み処としてゐる《他》たる《反=吾》の一つの有様に違ひない筈であるけれども、人間における主幹たる《吾》といふ自意識はといふと絶えざる連続性を求められつつも、絶えず《吾》の主幹たる《吾》の自意識は、それは「先験的」にかもしれぬが、何かによってぽきりと折られ非連続的な《吾》の《存在》を強ひられながら、しかし、人間における《吾》といふ主幹にも《吾》の蘗が生え出るかの如き《インチキ》をそのぽきりと折れた《吾》に接ぎ木するやうにして《吾》といふ《存在》は架空された《吾》として《存在》することを強ひられるのである。尤も、その《インチキ》を身に付けなくては、神ではなく人間の《他人》が作り上げた都市に代表される人工の《世界》では、一時も《存在》することが不可能なのである。それは或る意味当然の事で、慈悲深くも荒々しき神が創りし《世界》では《吾》もまた広葉樹のやうに《吾》の蘗が生え出る事は神に許されてゐて、しかもそれはむしろ《自然》な事なのであるが、しかし、既に人間が作り変へてしまってゐてその《吾》以外の《他人》が既に《吾》の誕生以前に作り変へてしまった人工の《世界》で生き延びるには、《吾》はその主幹たる《吾》を自ら進んでぽきりと折る勢ひでなければ《存在》は出来ず、挙句の果ては恰も蘗の《吾》が《存在》するかの如く架空の《吾》をでっち上げる、つまり、《吾》といふ《存在》の有様は如何しても《インチキ》だといふ忸怩たる思ひを絶えず噛み締めつつ

――ふっふっふっ。

と、皮肉に満ちた薄笑ひをその蒼白の顔に浮かべなければ、この《他人》が既に《吾》の誕生以前に作り上げた人工の《世界》では《存在》することが許されないのである。さうして、《吾》の内部にぽっかりと開いた《零の穴》若しくは《虚の穴》には数多の《異形の吾》共が棲み付き、そして、絶えずその《吾》を名指して

――馬~鹿!

と嘲笑してゐるのである。

当然彼にとっても事情は同じで、絶えず彼の内部では《異形の吾》共が皮肉たっぷりに

――馬~鹿!

と彼を嘲弄するのであった。

――へっ、さうさ、俺は大馬鹿者さ。

と、彼は決まって《異形の吾》共の嘲弄に対してこれまた皮肉たっぷりに返答するのであった。

――土台この浮世、大馬鹿者以外生き残れやしないぜ。

――だからお前は馬~鹿なのさ、へっ。

――馬鹿で結構。それでも俺は何としても此の世で生き残るぜ。

――ふっふっふっ。

その醜悪極まりない《吾》の鏡像としてしか現はれぬ《異形の吾》の一人はにたりといやらしい薄笑ひをその相貌に浮かべたまま、再び

――馬~鹿!

と彼を罵るのであった。

――へっ、馬鹿に徹してしかこの異様な浮世では誠実であることは不可能なのさ。

――馬~鹿!

――どうも有難うごじぇえますだ、俺を馬鹿呼ばわりしてくれて、ふん。

――その大馬鹿者に一つ尋ねるが、お前は、此の異様な《他人》が徹頭徹尾作り上げ神から《世界》を掠奪した人の世に生きることが楽しいかね?

――さあね。楽しくもあり、また、不愉快極まりなくもある。

――それぢゃあ、お前は人間が神の御手から掠奪した此の異様な《世界》を承認するかね?

――いいや、絶対に受け入れられぬ。

――ならば何故に生き残るなどと嘯くのかね?

――逃げられないからさ。

――逃げられない?

――ああ、此の世に《存在》しちまった《もの》はその《世界》から遁れられぬし、また、此の世から遁れる出口なんぞは何処にもありゃしないのさ。それはつまりこの人工の《世界》では自死することすら全く無意味な行為でしかなく、《吾》が自死しようがこの人工の《世界》は「また《吾》が自死したぜ! 全く《吾》とは間抜けな《存在》だぜ」と腹を抱へて哄笑するのが落ちさ。つまり、この人工の《世界》では如何足掻かうが「出口無し!」と相場が決まってしまってゐるのさ。

――では《愛》は何なのか?

――《吾》が《吾》として架空されてゐることを確認する一行為に過ぎぬのさ、この人工の《世界》では!

――すると《吾》とは既に幻影の類に成り果ててしまったのかね?

――ふっふっふっふっ、さう望んだのは人間自身ぢゃないのかね?

――何をしてお前にさう言はしめるのかね?

――へっ、人間は人力以上の《力》を手にした途端、《世界》を神から掠奪する事に一見成功したやうに見えるが、その実、人力以上の《力》で作られ、その挙句、人工物で埋め尽くした此の人工の《世界》は、へっ、既に人間の想像の範疇を超えた何かでしかないからさ。そんな《世界》における世界=内=存在を一身で体現出来る《吾》なんて、へっ、幻影でなければ一体何だといふのかね?

――つまり、この世界=内に《存在》する《吾》は、己の手で此の現実に対さねばならぬのっぴきならぬ立場に自らを追ひ込み、そして、人力の無力さを嫌といふ程味はひ尽くした上に、此の《世界》に対峙する事の辛酸を嘗め尽くさずば、《吾》の本当のところは不明といふ事かね? 否、むしろ己の虚無さ加減が解からぬといふ事かね?

その時、彼はゆっくりと瞑目し、瞼裡に朧にその相貌を浮き上がらせた或る《異形の吾》をきっと睨み付けてかう問ふたのであった。

――人間が人力以上の動力を手にした瞬間に、《吾》は《吾》の化け物と化して、その或る仮構された《吾》らしき《もの》を如何足掻いても《吾》と名指す外なく、そして、さう名指すことでやっとその無力なる己の屈辱感を一瞬でも忘却したかった、ちぇっ、つまり、この世界=内=存在を一身で体現しなければならぬこの《吾》といふ生き物のどん詰まりを味はひ尽くさずば、最早《吾》など泡沫の夢に過ぎぬといふことかね?

――さう、人間は人間の欲望の涯に人力以上の動力を手に入れて、その《力》で強引にすら思へる程にこの現実を作り変へた結果、《吾》といふ実体を見失ってしまったのさ……否! 最早、《吾》といふ《もの》を実感を持って《吾》と、この《吾》は断言出来なくなってしまったのだ!

――それは人力以上の動力を手にした《吾》は最早《世界》に対峙する術を、つまり、《生身の吾》によってしか対峙出来ぬ此の《世界》を見失ったといふことかね? 更に言へば、《吾》は《吾》本来の姿から遥かに膨脹してしまった何かに既に成り果ててしまったといふことかね?

――ふっ、《吾》の膨脹ね――。人力以上の《力》で《世界》を人工の《もの》として神から掠奪し果せた人間は、換言すれば、その神から掠奪しようと己の手を汚して《世界》を手にした第一世代は、多分、未だ《吾》が《吾》である実感がしっかりとあったに違ひない筈だが、それ以降の世代、つまり、生まれる以前に既に《世界》が誰とも知らぬ他人(ひと)の手で人力以上の《力》で人工の《もの》へと変はってしまってゐた第二世代以降の人間は、さて、どうやって己の生存を保障したのかお前にも想像はつくだらう。

――つまり、《吾》は、《吾》であることを断念し、その誰とも知れぬ他人の手になる、しかも、人力以上の《力》で作り変へられてしまった人工の世界=内=存在に徹する外に、この《吾》が生き延びる術は最早残されてゐなかった……違ふかね?

――詰まるところ、《吾》は《吾》本来備わってゐた筈の《生身の吾》といふ主幹を自らぽきりと折って、この人工の《世界》に適応するべく生える筈がない《吾》の蘗の生長を、へっ、架空する外なかったのさ、ちぇっ。

――へっ、その結果出現したのが、中身ががらんどうの、それでゐて人力以上の《力》を手にした故に膨脹せずにはゐられなかった《吾》の化け物を、ちぇっ、《吾》と名指す愚劣を犯す外になかったこの何とも哀れなる《吾》といふ訳か――。

――しかし、さうすると、この人工の《世界》をぶち壊せば、簡単に、元通りの再び神の《世界》の中の実感ある《吾》を取り戻せるのぢゃないのかね?

――へっ、「創造と破壊」と言っては、ぷふぃっ、洒落る訳ね?

――といふ事は、「創造と破壊」は最早無意味な呪文の一種でしかないと?

――へっ、さうさ。シヴァ神を復活させたところで、最早其処にはTerrorism(テロ)の恐怖しか齎さないのは、忌まわしき日本のオーム真理教による地下鉄Sarin(サリン)事件といふTerrorismや宗教の忌まわしき処を具現化しちまった原理主義者による亜米利加(US)で起きた同時多発Terrorismが図らずも証明しちまったのぢゃないかね?

――つまり、《吾》の実感を追ひ求めることは、即ち、原理主義の台頭を、就中(なかんづく)、暴力を絶対的に肯定する「聖戦」を掲げた原理主義に直結しちまふ時代が到来しちまったといふことだね?

――さう、哀しい哉、《吾》は、ちぇっ、この主幹なき《吾》の蘗が生長し、その内部に《虚(うろ)の穴》を持つこの《吾》は、人力以上の《力》を手にし膨張に膨張を重ねた揚句に誕生しちまったこの《吾》といふ名の化け物と何とか折り合ひをつけなければ、只管、無意味な《死》、つまり、犬死する《吾》、若しくは現代の人身御供たる《吾》を大量に生み出すのみの何とも惨憺たる状況に《吾》は既に陥っているといふことさ。

――その因が、即ち人類が人力以上の《力》を手にして此の《世界》を神から掠奪したといふことなのか――。

――其処で一つ尋ねるが、《吾》は人力以上の動力で神の世を人の世に作り変へた、つまり、その徹頭徹尾《吾》の与り知らぬ《他》の手による人工の世界で、世界は時空間的には伝達若しくは《存在》の輸送手段の高速化故に見かけ上縮小し、それは即ち此の人工の世界に誕生させられた《吾》が否が応でも生き残る為に、膨張した架空の《吾》を《吾》と名指してみたはいいが、その実、己の内部にぽっかりと空いた《零の穴》若しくは《虚(うろ)の穴》に閉ぢ籠る外なかったのが、《吾》の置かれたのっぴきならぬ現状だとは思はぬか?

――つまり、其処には《反=吾》が棲まなければならぬ《吾》の《零の穴》若しくは《虚の穴》に、へっ、当の《吾》が己の身を《他》が満ち溢れてゐるとしか認識できない人工の世界から守るべく閉ぢ籠ったと?

――さう。《零の穴》若しくは《虚の穴》は《吾》にとって最後の砦になっちまったのさ。

――それは《吾》にとっては堪へ難き矛盾だらう?

――さうさ。《吾》が《吾》であることに「先験的」に矛盾しちまってゐる。

――それでその一つの帰結が決してその《存在》は許されぬところの《吾》は存在論的な蘗といったらいいのか、それは摩訶不思議な《存在》の仕方を選ばざるを得ぬといふ事だったのか?

――ああ。《吾》に《零の穴》若しくは《虚の穴》があり《吾》の蘗が生えるといふ事は、元来、世界が《吾》にとって慈悲深き《もの》といふ事の証左であったが、世界が神の世から人の世に変はった為に《反=吾》が其処にゐなければならぬ《吾》の《零の穴》若しくは《虚の穴》に《吾》それ自身が閉ぢ籠り、へっ、《吾》と《反=吾》はその《零の穴》若しくは《虚の穴》の中で縄張り争ひをしながら、人工の世界ではその存在が存在論的にあり得ぬ、つまり、架空にでっち上げられた存在論的な蘗の《吾》を《吾》と名指して、何とか《吾》と《反=吾》の棲み分けを試みてゐるが、へっ、土台《吾》と《反=吾》は一度出会ふと光となって霧散消滅する。

――つまり、絶えず《吾》と《反=吾》は《吾》の《零の穴》若しくは《虚の穴》で出会って、そして、光となりて消滅してゐるとするならば、一体《吾》が《吾》と名指し《吾》と呼んでゐる《もの》は何なのかね?

――だから言ったらう、《吾》がでっち上げた架空の膨張に膨張を重ねた醜い《吾》の化け物だと。

――つまり、この人工の世界に生き残るには、《吾》は率先して《吾》を滅却する外に、最早《吾》の、ちぇっ、これは変な言ひ分だが、その《吾》の生き残る《存在》の在り方は残されてゐないといふ事か――。

――それでも《吾》は生き延びなければならぬ。

――へっ、それは如何してかね?

――聞くまでもないだらう?

――つまり、後世に必ず出現する未だ出現せざる未知なる《もの》達の為に、世界を人力以上の動力で人工の世界に変へる狂気の例証として《吾》は、この異常極まりない人工の都市で生き残る外ない……違ふかね?

――更に言へば、《吾》は、《吾》の《零の穴》若しくは《虚の穴》で絶えず《吾》は生成しては即座に其処に棲まふ《反=吾》と出会っては光となりて霧散消滅することを繰り返してゐるとは言ひ条、其処には新たな《吾》の《存在》の仕方が生まれるのではないかといふ密かな密かな期待が、ちぇっ、《吾》のEgo(エゴ)に満ち満ちた下らぬ、誠に下らぬ淡き期待が隠されてゐるのさ。

――しかし、それは《吾》の化け物とはいへ、少なくとも《吾》はそれが人工の世界では存在論的にはあり得ぬ《吾》の蘗に過ぎぬとしてもだ、《吾》が人工の世界=内=存在としての「現存在」たる《吾》が、「《吾》とは何ぞや?」と「現存在」たる《吾》に絶えず問はずにはゐられぬのは、自然の道理ぢゃないかね?

――ああ。《吾》は《吾》を喪失しても、やはり《吾》は《吾》として《存在》することを強要され、そして、「現存在」たらむとしてあり続ける、言ふなれば何処までもみっともない《存在》ぢゃないかね?

――へっ、やっと腹を括ったか――。

――腹を括るも括らないも、現に今俺は《存在》してゐる――筈だ。

――筈だ? つまり、《存在》してゐると断言は出来ないんだね、へっ。

――へっへっへっ。最早、何《もの》も、ちぇっ、「俺は俺だ!」ときっぱりと断言出来る《存在》としての、換言すれば、此の《生者》のみが「俺は俺だ!」と宣ふ事を許された《存在》としての、へっへっ、この《生者》たる《吾》は、恰もそんな《吾》が此の世に《存在》するが如く《吾》といふ《存在》を無理矢理にも、若しくは自棄(やけ)のやんぱちにでも架空せざるを得ず、また、神から掠奪した人工の《世界》において、《吾》を《吾》と名指す事のその底無しの虚しさは、《吾》の内部にぽっかりと空いた《零の穴》若しくは《虚(うろ)の穴》の底無しを表はしてゐるに違ひないのだが、さて、《死》を徹底的に排除した《生者》のみが棲息するこの人力以上の動力で作り上げられた此の人工の《世界》は、へっ、自然に対して余りにも羸弱(るいじゃく)ではないかね?

――それは全く嗤ひ話にもならぬ事だが……。此の《生者》の為のみに作り上げられた人工の《世界》は全くもって自然に対して羸弱極まりない!

――すると、此の人工の《世界》に生きる事を、若しくは《存在》する事を強要された《吾》といふ架空され、《吾》の妄想ばかりが膨脹した此の《吾》もまた、自然、ちぇっ、単刀直入に言へば《死》を含有する自然に対しては羸弱ではないかね?

――へっ、元来、《吾》が《死》に対して強靭だった事など、此の宇宙全史を通じてあったかね?

――だが、自然にその生存を全的に委ねてゐた時代の《吾》たる《もの》は、傍らに《死》が厳然と《存在》してゐた分、それを敢へて他力本願と名指せば、己の命を《吾》為らざる《もの》に全的に委ねるといふ、何とも潔い《生》を生きてゐた筈だ。つまり、《死》が身近故に、《存在》は《存在》する事に腹を括り、そして、《吾》は蘗の《吾》をも含めて如何様の在り方をする千差万別の《吾》を、《世界》も《吾》も極当然のこととして受け容れてゐた。

――ふむ……。《生》が《死》へと一足飛びに踏み越え、簡単に自ら死んで行く、つまり、それ故、原理主義が彼方此方に蔓延(はびこ)る、へっ、その結果、《死》に対して何とも余りに羸弱極まりない《吾》、そして、その《吾》の《存在》の無理強ひが《死》を徹底的に排除した人工の《世界》へと遂には結実して行くのだが、しかし、嘗ての《吾》が多様に《存在》する、若しくは自在に《存在》出来てゐたに違ひない神と共に《存在》出来た神の世において、果たして、狂信は齎されなかったとでも思ふのかい?

――いいや、何時の時代でも《もの》は何かを狂信してゐたに違ひない筈さ。

――ならば、何故、彼方此方に蔓延る現代の原理主義ばかりを特別視するのかね?

――現代の原理主義は、徹頭徹尾《生者》の論理、ちぇっ、それは裏を返せば冷徹な《死》の原理に地続きなのだが、それ故、現代の原理主義は、二分法を極めて厳格に適応した末に生まれてしまった、その実、背筋がぞっとせずにはいられぬ代物でしかないからさ。

――つまり、蘗の《吾》としてしか《存在》する事が許されぬこの《吾》といふ《インチキ》を平然と為し遂げて、いけしゃあしゃあと恰もその蘗の《吾》を本当の《吾》と仮想、否、狂信し、而も、その蘗の《吾》の出自に目をやる余裕すら失ってしまった此の《生者》の論理ばかりが罷り通る人工の《世界》は、へっ、その人工の《世界》自体が自然に対して極めて羸弱極まりないといふその論理的な破綻を、果たして、此の世に《存在》する《もの》の何(いづれ)かは論理的に破綻せずに語り果(おほ)せられるかね?

――ふっふっふっ。自然に対して極めて極めて羸弱な《世界》って、さて、何なのだらうか……?

――つまり、人工の《世界》と自然とが相容れない状態でしか互ひに《存在》してゐない事それ自体、へっ、つまり、詰まる所、此の人工の《世界》そのものが、元々自然と重なり合ってゐたに違ひない《世界》なる《もの》もまた、その本質をぽっきりと折られ、蘗の《世界》としてしか《存在》してゐないとすると、ちぇっ、人類史とは一体全体何の事なのだらうか?

――無知無能なる《生者》が、全智全能なる《もの》の振りをするべく、神の下の《世界》をぽきりと折って、神を、そして、《死》を徹底的に排除する事で、《生者》天国の人工の《世界》が、恰も此の世に創出可能な如くに《生者》が見栄を張ってゐたに過ぎぬとすると、《存在》とはそもそも何と虚しき《存在》なのであらうか?

――ちぇっ、何を今更? 元来、頭蓋内の闇に明滅する表象群は、恰も絶えずその表象群が無辺際に湧出するが如く看做すこの《吾》は、己の頭蓋内の闇を覗き込んで、その頭蓋内の闇といふ五蘊場に明滅する数多の表象群を眼前に取り出した揚句に、ちぇっ、結局のところ、頭蓋内の闇の表象群を外在化させて作り上げた人工の《世界》から帰結出来る事と言へば、《生者》の頭蓋内の闇といふ五蘊場から《死》を徹底的に排除してゐるに過ぎぬといふ事ぢゃないかね?

――《存在》は唯一つ大事な事を亡失しちまてゐる振りをしてゐる。

――それは……《死》だね。

――さう、《死》さ。頭蓋内の漆黒の闇たる五蘊場に生滅する数多の表象群をコツコツと具現化することだけに感(かま)け、挙句の果てにその頭蓋内の漆黒の闇たる五蘊場で表象した《もの》を外在化し、その事に見事に成功した筈なのだが、しかし、その本質はといふと、へっ、全て《死》と紐帯で繋がってゐなければ、そもそも表象すら出来ない事を、《生者》、つまり、《存在》は見事に亡失し果せた振りをして見せたのだ。

――しかし、その振りも最早限界に来てしまったのだらう?

――さう。最早《自然》に対して余りにも羸弱なこの《人工世界》は、その本質が《死》故に、絶えず《生者》は自殺へと誘はずにはゐられぬ。

――つまり、この《人工世界》は絶えず《存在》を《死》へ誘ふと?

――さう。

――それは、つまり、《存在》の本質が《死》だから、この頭蓋内の闇に明滅する表象を具体化し外在化した《人工世界》は、《死》の具現化へと行き着く外なかったと?

――違ふかね?

――違ふかね? すると、へっ、《生者》は《存在》の代表者面をして、最も《生者》が忌避したかった《死》を、この《人工世界》つまり、街として具現化してしまったといふ事かね?

――さうさ。更に言えば、街が計画的に造られてゐればゐる程、《死》に近しい。

――つまり、それは敗戦後の闇市的な猥雑な《場》こそ《生》に満ち満ちた人工の《場》たり得た筈さ。

――つまり、焼け野原といふ一つの主幹たる戦前の継続し得たであらう街がぽきりと折れた後に、蘗として猥雑極まりない闇市が自然発生的に生まれた筈だが、その蘗たる闇市的な生活空間を、後知恵に違ひない都市計画なる鉈(なた)でばっさりと切り倒され、其処に現出した人工的な更地たる時空間、つまり、蘗が全て切り倒された様相の街が此の世に出現し、そして、其処に人力以上の動力やら重機で人一人では全くびくともしない《人工世界》が造り上げられた。

――へっ、つまり、それが徹頭徹尾《死》の具現化でしかなかったと?

――違ふかね?

――違ふかね?

――でなければ、この人工の街で《生者》が次次と自殺する筈がないではないか?

――つまり、この《人工世界》は絶えず《存在》を《死》へ引き摺ってゐると?

――違ふかね?

――ぢゃ、人類の叡智とは、結局、《死》の具現化に過ぎなかったといふ事だね?

――否、人類の叡智といふ《もの》は人一人でのみ体現できる、否、人一人で生きて行ける《もの》こそ人類の叡智であって、科学的技術といふ名の《知》は、《存在》の《生》とは全く無関係な代物で、叡智といふ《もの》は、人一人で具現化出来る《もの》であって始めて叡智と呼ばれるのであって、人一人で具現化出来ない《もの》は叡智とは言はないのさ。つまり、《生》に関して言へば、百年前と同じで、人類は何一つ《生》の様相を変へる事が出来なかったのさ。変わったのは全て《死》の様相さ。

――《知》は叡智にはなり得ぬと?

――ふむ。多分だが、科学なり生命科学なり化学なりの高度極まりない《知》が叡智へ相転移を遂げる鍵を《存在》は未だ見出し得ぬのが正直なところさ。

――つまり、此の世に《存在》するといふ事は、《神》の夢の途中といふ事かね?

――此の世の摂理が《神》による《もの》だと看做したければさうすればいいのさ。但し、摂理が摂理たる鍵は未だ何《もの》も見つけられず仕舞ひだ。

――では、その鍵を見つける手立ては?

――《現実》を本来の《現実》に戻せばいいのさ。

――本来の《現実》?

――さう。本来の《現実》さ。《存在》にとって最も不便極まりないのが《現実》だといふ事を思ひ出すがいいのさ。

――ふむ。《現実》は不便な《もの》か……。

――すると《楽》は《死》と直結するといふ事だね?

――さうさ。物質に特有の特性を見つけてはその特性を最大限に利用し、人間の奴隷たる様様な機器を作っては、人間といふ《存在》は《楽》を求めてゐるが、それが《死》の予行練習に過ぎない事に思ひ至らぬ馬鹿者さ、人間といふ生き物は。それ以前に《楽》を求めた人間の《生》は《楽》になったかね?

――いいや。以前にもまして尚更忙しくなっただけだ。

――当然だらう。時間が、否、時空間がFractalな《もの》だといふ事に今も尚、気付かぬ馬鹿者共が人間なのだからな!

――え? 時空間がFractal?

――さうだらうが! 《楽》を求めてもちっとも《楽》にならぬではないか! 奴隷たる様様な機器が、その性能を上げれば上げる程に、その主人たる人間は忙しくて仕様がなく、それは詰まる所、時空間に間延びする現象はなく、時空間はFractalな《もの》と看做した方が自然だらう。

――つまり、幾ら《楽》を求めても時空間には間隙は生じない――。

――だから、此の時空間はFractalな《もの》と看做した方が自然に適ってゐるのさ。といふのも、《楽》を求めて時空間に間隙を生み出すべく、物質を機器として人間の奴隷にしてみたはいいが、時空間には間隙が生じる代はりに更なる回転速度が高速となったとしか感じられぬ時空間の流れが、更に《楽》で生じた筈の時空間の間隙に厳然と《存在》することを人間は知るといふ笑ひ話にしかならない事を、此の人間は大真面目に今も尚追及してゐるが、それは、所詮、《死》の予行練習でしかない事を肝に銘じるべきなのさ。

――すると、《死》では時は途轍も速く流れてゐるといふ事かね?

――それは、換言すれば、《死》においては時の流れは限りなく止まってゐるのと同じ事さ。

――ちぇっ、此処でも《無》と《無限》の問題か――。

――つまり、例へば人間を例にしてみると、人間は自己といふ主幹を先づ、羊水から此の世へと送り出される時に、バッサリと何かが手にする鉈でぶった切られて、仕方がなく此の世で生き抜くべく新たな主体を芽生えさせる事を強要されるが、しかし、その新たに芽生えた蘗として未来の主幹になるべき主体は、再び有無を言はせずにバッサリと切り倒され、更にそこから芽生えた蘗の中の主幹になり、主体となるべき《もの》は更にバッサリとぶった切られることを蜿蜒と繰り返すことに終始する。

――ちぇっ、それが何度も絶えず続く事でしか主体は主体として此の世に《存在》出来ぬのだらう?

――だから、嘗ては、そのぶった切る時にちゃんと儀礼を執り行って主体の主幹をぶった切ってゐたが、現在では、それが曖昧模糊となり、何時の間にやら主幹たる主体は何かが手にした鉈でバッサリとぶった切られ、ぶった切られた《もの》は、へっ、何が吾の主幹たる主体をぶった切ったのかその顔すら全く不明の、ふっふっふっ、強ひて言えば、洒落を込めて「混迷の時代」になっちまったのさ。更に言へば主幹が何時ぶった切られたかも解からぬこの「混迷の時代」は、而も誰もが《吾》にあるに違ひない主体の主幹が一度も何かにぶった切られた事をも全く知る機会を喪失してゐて、そして《吾》の主体たる主幹が既にぶった切られ、その蘗の蘗の蘗の蘗の主幹になるべき筈だった主体すらぶった切られてゐる事すら知らぬ、へっ、如何なる主体も、「《吾》とは何処?」と呻きながら此の世の底辺を彷徨ってゐるのが実情だらう?

――ふむ。主体とは初めに蘗になりき、か。

――さう。蘗でない主体を《吾》と言ふ欺瞞に此の世は満ち満ちてゐるが、これは例外なく、如何なる主体もその主幹を何回となくぶった切られた、へっ、途轍もなく屈折した主体としてしか此の世に《存在》する事が許されぬのだ。

――何に許されるといふのか?

――自然だらうが! お望みならば《神》と言ひ切ってもいいがね?

――ちょっと穿った見方をしてみると、或る種の人種、つまり、此の世の森羅万象は脳がさう見させているに過ぎぬ《もの》だと言ふ脳絶対主義者が《存在》するが、そんな理不尽な脳絶対主義者に対しても主体が蘗としてしかあり得ぬ事を納得させられるかね?

――へっへっへっ、そんな奴らは抛っておけばいいのさ。

――つまり、元来、主体とは夢幻空花なる幻に過ぎぬといふ事か――。

――さう。主体が《吾》と名指す《もの》は既に何かにぶった切られてゐて、その正当性を失ってゐる蘗の蘗の蘗の蘗の、と蜿蜒と蘗のといふ言葉が続く、この蘗の主体は、何時まで経ってもその目的たる《吾》に至ることはなく、人は、つまり、「現存在」は、唯、茫然と虚空を仰ぎ見ながら『《吾》は何処ぞ?』と、絶えず問はずにはゐられぬ此の世の居心地の悪さに辟易しながらも、《吾》といふ《もの》は恰も《存在》するかの如く、何回目かの主体の蘗の主体を誕生から死すまで、一貫して、若しくは正当性があるやうに《吾》なる《もの》を《吾》と看做す自己欺瞞を平気でするのさ。

――だって、さうしなければ、《吾》は《吾》たる事に我慢出来やしないのぢゃないかね?

――しかし、《吾》が《吾》である必然性が何処にあるといふのかね?

――《吾》が《吾》である必然性?

――さうさ。《吾》は別に《他》であっても構はない代物ぢゃないかね?

――《吾》が《他》である事に、そもそも《吾》は堪へ得るやうには出来てやしないぜ。その一例が多重人格ではないのかね?

――多重人格者であっても、或る人格にある場合、それは欺瞞でしかないにも拘らず、その人格が《吾》である事は何の不自然な点はなく、多分、何かの人格になっていたとしてもその人格は『《吾》は《吾》だ!』と世界に向かって叫び声をあげる筈さ。

――では、蘗の主体でしかない主体とは、一体全体何なのかね?

――「根」は変はらぬ何かさ。

――つまり、主体の無意識の部分ではその蘗の主体の「根」は変はらぬといふ事かね?

――主体の「根」を無意識と看做していいのかどうか、私には判断のしようがないが、しかし、現代の高度情報化社会に誕生させられる如何なる《存在》も、その姿形を始めとしてその性質まで変へられて、つまり、矯正された主体、へっ、それが所謂主体の蘗なのだが、その《存在》の初めから主体が主体である自由を略奪されて、森羅万象は全て此の世に出現するのさ。

――ふっ、主体が主体である事は自由の問題かね?

――ああ。自由の問題だ。主体が蘗の主体でしかない事実を如何なる《存在》も避けてゐる故に、自分探しなんぞと悠長な、それでゐて夢見心地の下らぬ事が、恰も何か深遠な事の如くに蘗の主体は、位置付けてはみるのだが、結局、如何なる《存在》も自分を探せたと言挙げ出来る《存在》は此の世に《存在》した例がないぢゃないかね?

――ふむ。多分、如何なる《存在》も《吾》を見出しはしないか……。つまり、《吾》は《吾》であるといふ場合、その《吾》は連続性がなく、非連続な《もの》としてしか表象出来ぬ筈だし、仮に、《吾》が《吾》として一貫した《吾》として表象する《もの》は、それが欺瞞でしかない事実を甘受する、へっ、不快を、ぢっと噛み締める事が《吾》が唯一、此の世で生き延びさせられる蘗の主体でしかない主体の生存する智慧に違ひない。

――どの道、《吾》は誕生した時に既に臍の緒をぶった切るが如くに蘗の主体でしかない此の世の如何ともし難い摂理は、ちぇっ、神の仕業か! 神なんぞ糞喰らへだ!

――くっくっくっ。そもそも自然が主体に絶えず試練を与へ、主体が、へっ、蘗の主体が如何に此の世の自然に適応出来るか、神はその玉座に坐したままぢっとその様を凝視するのみといふ此の世の摂理を、《存在》する《もの》は既に「先験的」に受容してゐる事を如何なる《存在》も認めたくはない。つまり、《吾》が《存在》してゐると何の疑問も抱かずに素直に認める《もの》は、一生夢から覚めることなく、つまり、その《存在》に関して苦悶することなく、夢から彼の世といふ夢へと、此の世といふ現実に出合うことなくその《生》の光芒の残像を残すのが関の山だ。

――主幹なき蘗の主体は、すると、自分探しといふ莫迦な事を始めるといふ事は、つまり、酌めども尽きぬ夢の中に引き籠る事でしかないといふ事か――。

――さう。《吾》とは既に一貫性を喪失してゐるのさ。

――すると、《吾》が《吾》と呼んでゐる《もの》こそ、此の世を夢へ堕す元凶なのか!

――さて、其処で、此の世の夢かもしれぬ現実が、結局、正真正銘、夢でしかない、換言すれば、表象が明滅する虚無の大海でしかないとすると、この《吾》が《吾》と呼んでゐる、既に主幹無き蘗の《吾》もまた、夢でしかないと、此の蘗の《吾》が甘受した処で、詰まる所、何にも変はりはせず《世界》は相変はらず《世界》のままで、「現存在」たる《吾》も相変はらず《吾》、つまり、主幹無き蘗の《吾》であって、其処にはTautology(トートロジー)の罠が渦巻いてゐるだけだぜ。

――渦巻かぬ《吾》とは、はて、何なのかね?

――渦巻かぬ《吾》? つまり、《吾》はそれが《存在》する限りTautologyの渦巻きの中にあると?

――へっ、当然だらう。今までに此の世に《存在》した森羅万象の中で、『Eureka(ユリイカ)! 《吾》を見つけたぞ!』と、全宇宙に響き渡る叫び声をあげた《存在》が、一度でも《存在》したとでも思ひ看做してゐるのかね?

――釈迦牟尼仏陀はどうかね?

――無を、諸行無常を、生老病死を語っただけぢゃないかね?

――基督は?

――磔刑にされた無惨な姿を今も衆目に曝し続け、《生》の「奇蹟」を《生者》に刷り込み続けてゐるだけさ。

――ムハンマドは?

――日常の、つまり、夢でしかないかもしれぬ日常に戒律といふ名の生きる作法を与へた基督教の分派の一つに過ぎぬのではないかね?

――それでは神は?

――へっ、此の世が神の夢でしかないとしたならば?

――神の夢とは、即ち、現実の事ではないのかね?

――否。神の夢は、此の世の森羅万象には与り知らぬ、唯の虚妄に過ぎぬのさ、へっ。

――さうすると、《世界》もまた、その主幹をぽきりと折られた蘗の《世界》といふ事か!

――当然だらう。

――さうすると、真実とは一体何なのだ!

――お前が現に対峙してゐる《吾》と《世界》の事さ。

――しかし、それはいづれも蘗の《もの》でしかないのだらうが!

――ふっ、ならば、Big Banへまで再び此の世を引き戻してみるかね? さうして見ないと、詰まる所、お前は納得行かぬのだらう?

――それでは一つ尋ねるが、そもそも科学は真かね?

――さあね。

――さあね? すると、科学すら真ではないといふのかね?

――ああ。その通りさ。科学は、此の世のからくりを理論立てて、それを実証してみるだけであって、それ以上でもそれ以下でもない。つまり、科学は、何故に《世界》がこのやうに《存在》するのかといふ《存在》の根本の解答を、つまり、その因を解き明かす時は永劫に訪れないのさ。唯、科学は《世界》をなぞるのみなのさ。

――しかし、「現存在」を初めとする此の世の森羅万象は、全て、「《吾》は《吾》である」とは言ひ切れず、その自同律の不快と言はれるその不快をぢっと噛み締めながら、《吾》が此の世の淵源より発生した《もの》の一つである事を切望してゐる《もの》の筈だが、それは全て《吾》の、ちぇっ、蘗の《吾》の虚妄に過ぎぬといふ事かね? ざまあないぜ!

――それで《吾》は満足なのかい?

――満足? 何に対する満足かね?

――蘗の《吾》の《存在》自体が虚妄に過ぎぬといふ事さ。

――何処のどいつが、それに満足できるといふのか!

――しかし、殆どの「現存在」はその日が安寧に過ぎれば、それで満足ぢゃないかね?

――否。此の世の《存在》はそれが如何なる《もの》であっても、《存在》に対して或る猜疑心を抱いてゐる。

――つまり、それは、蘗の《吾》が《吾》でしかなく、それで《吾》はいいのかといふ存在論的な猜疑心だらう?

――さて、存在論的猜疑心とは、約めて言へば「不安」の事と違ふのかい?

――確かに其処には一理あるが、「不安」なんぞは《存在》する森羅万象が密かに抱くごくありふれた《もの》に過ぎぬ。

――すると、お前の言ふ存在論的猜疑心とは何の事かね?

――《吾》が喪失する事さ。

――《吾》の喪失? へっ、《吾》はそもそもが蘗の《吾》でしかなく、《吾》を既に喪失してゐるのぢゃなかったっけ?

――それぢゃ、一つ尋ねるが、お前は、己の事を《吾》と看做さないのかい?

――ふむ。

――蘗の《吾》だらうが、一度《存在》しちまへば、《吾》といふ観念はその《存在》に宿る筈だ。

――はて、《吾》の観念が宿るとは一体全体何の事かね?

――字義通り《吾》といふ観念が《存在》に宿るのさ。

――すると、《存在》といふのは、《吾》といふ観念の乗り物に過ぎぬといふ事かね? それでは今迄語ってゐた蘗の《吾》と大いなる矛盾を来たすのぢゃないかい?

――では、一つ尋ねるが、《吾》といふ観念は、「先験的」と思ふかい?

――う……む。「先験的」ね。そもそも《吾》が何なのか未だに解からぬこの蘗の《吾》に《吾》といふ観念が「先験的」かどうかなんて解かる筈がない。

――《吾》とは自然発生的に生じる《もの》といふ根拠がない以上、《吾》は「先験的」に《存在》に宿り、そして、例へばそれを「神の斧」と名付ければ、その「神の斧」でぶった切られた《吾》は、それでも此の世に適応するが如くに新たな《吾》を《存在》に見出し、蘗の《吾》は再びその《存在》に何事もなかったやぅに《存在》、つまり、此の世の森羅万象に宿る。

――すると、「神の斧」でぶった切られた《吾》は一体全体何と呼ぶのかね?

――当然、《吾》さ。

――さうすると、《吾》の連続性は失はれる事になるが、それは大いなる矛盾ではないのかね?

――ふっ、《吾》はそもそも非連続的な《もの》さ。

――《吾》が非連続? だが、大概の、例へば「現存在」は《吾》を非連続なんてこれっぽっちも思ってはゐないぜ。

――それこそ大いなる矛盾だらう。《吾》は既に《吾》が《存在》してゐる時には蘗の《吾》、つまり、《吾》は、そもそも非連続的な《もの》なのに、それを無理矢理に連続するが如く看做す誤謬に《吾》は拘泥する。そんなものしょんべんでもひっかけちまへばいいのさ。そもそも《吾》が《吾》の思ふやうに《存在》する事は《他》には偉い迷惑な話で、そんな傲慢な《吾》は《他》によって最終的には殺戮されるのが落ちさ。

――つまり、蘗の《吾》は、此の《世界》に巧く適応出来た《吾》の総称かね?

――否。此の世の《存在》全てに宿る《もの》の事だ。

――つまり、お前にとって《吾》は《存在》に先立つのだな。

――さう。何を置いても先づ《吾》が《存在》する。

――そして、その《吾》は、例へば「神の斧」でぶった切られ、さうして已む無く蘗の《吾》を芽生えさせ、その蘗の《吾》を後生大事に成長させると、途端に再び「神の斧」が『それは違ふ』と言ってゐるが如くにその蘗の《吾》をぶった切り、それでも《吾》は存続するべく、新たな蘗の《吾》を芽生えさせ、そして、それをまた、「神の斧」にぶった切れを何度も繰り返す事で、《吾》は此の世を生き延びて、《吾》は、そもそも一貫性がない非連続的な《もの》として、此の世の《世界》に《存在》し、巧く順応してゐる「奇蹟」の事の総称がお前の言ふ《存在》に、森羅万象に宿る《吾》かね?

――《吾》が《存在》してゐる事を「奇蹟」と看做した処で、《吾》は蘗の《吾》を《吾》といふ《存在》に見出すのが関の山だ。

――譬へ《吾》が何度も「神の斧」でぶった切られた蘗の《吾》であらうが、《吾》が此の世に《存在》してゐる事実は「奇蹟」ではないのかね?

――ふっふっ、《存在》する《もの》はそれが何であれ全て「奇蹟」さ。

――ならば、何故に《吾》は「神の斧」でぶった切られる羽目に陥るのかね?

――ふっ、簡単さ。つまり、《吾》が冗長しないやうに《神》は《吾》をぶった切って、剪定してゐるのさ。しかし、《神》の剪定に何の理由もないがね。

――つまり、《吾》、ちぇっ、《存在》はそれが何であれ、《世界》、ちぇっ、《世界》もまた相転移を繰り返しながら《神》にぶった切られた蘗の《世界》だったが、その《世界》の中で生存する為に、そして、《吾》を《世界》に順応させる為に、《吾》は《神》が何の理由もなくぶった切る事を許容せずば、《存在》出来ぬ訳だが、さて、そもそも《吾》はさうしてまで存続するに値する《もの》かね?

――それは禁句だぜ。此の世の森羅万象に値踏みを付ける事程、虚しい作業はないぜ。つまり、此の世の森羅万象は「先験的」に《存在》する事を許されてゐる。

――しかし、自殺する《もの》も少なからず《存在》するぜ。

――それは、《吾》の存続は、只管、《吾》の《自由》に属すると傲慢にも看做しちまふ《存在》に魔が差した《吾》の愚行がさうさせる傲慢な《吾》の為せる業さ。

――つまり、《吾》が、結局の処、《吾》は蘗の《吾》、即ち、「偽り」の《吾》でしかないと、底無しの虚無に《吾》を漂はせてしまった事で、《吾》は《吾》の居場所を此の世で見失ひ、詰まる所、「えい!」とばかりに、《吾》を《死》の領域へと投身する自殺は、《世界》からの、そして《吾》からの永劫の遁走でしかないのさ。

――それでは、此の《世界》や《吾》から遁走する事は罪なのかね?

――ああ、勿論罪さ。何故って、例へば底無しの苦悩が永劫に続くが如く看做す《吾》は、《吾》である矛盾を決して許せず、そして、《世界》への、そして、《吾》への怨嗟の見せしめとして自殺して見せる愚行は、結局、《吾》の中のみで自閉した出来事でしかなく、さうして、自殺した《吾》は、永劫に時間が止まった《死》の一様相の中で、ふっ、自殺した《吾》はそんな事はつゆ知らず、自殺を遂げてしまった不幸な《吾》の甘ちゃんな処が、《世界》からの、そして《吾》からの遁走でしかなかったにも拘らず、その結果待ってゐるのは、未来永劫に《吾》である事を強要される地獄にわざわざ参る事に過ぎないといふ皮肉を行っているだけの事で、そして、苦悩の中で自殺した《吾》は、未来永劫に亙って完璧な《吾》である烙印を押されるに過ぎぬのだ。それは、つまり、《吾》が更なる蘗の《吾》となる事を已めちまったのだからな。当然の報ひだ。

――自殺が未来永劫に亙って完璧? それは一体全体何の事かね?

――自殺した《もの》には、何《もの》も口に出しては言はぬが、「卑怯者」といふ烙印が押されるのだ。それが、自ら《死》した《もの》が《死》した事によって、尚更強調されて此の世に残される《存在》の一様相であるが、その「卑怯者」と此の世に《生》を繋ぐ《もの》から蔑まれるその根拠に、自殺した《もの》には永劫と完璧といふ皮肉な事態が必ず起きる定めにあるのだ。つまり、変容する蘗の《吾》から遁走し自殺した《吾》は、生き残る《吾》から一斉に「卑怯者」と看做される故に、つまり、《生》を自らぶった切る愚行の罪として、自殺した「卑怯者」は、未来永劫に亙って完璧な「卑怯者」として、自殺に及んだその《存在》は、それが何であれ最早、遁れられぬ偏見の下、《生者》に蔑まされる宿命を自ら呼び込んだに過ぎぬのさ。

――ふむ。完璧な「卑怯者」か……。ふっ、「卑怯者」の完璧とは、余程の「卑怯者」なのだらうな、ふはっはっはっはっ。

――当然だらう。自殺しちまった《もの》は、或る種、此の世といふ地獄から遁れる事で彼の世といふ更なる凄惨な地獄に未来永劫《吾》である事を已められずにゐなければならぬ定めを自ら進んで選んだのだからな。

――つまり、自殺は地獄行きかね?

――勿論、私は今や地獄が生き生きと復活する事を予言する。

――地獄では《吾》は永劫に亙って、やはり《吾》かね?

――当然だらう。地獄で《吾》が永劫に《吾》でなければ、地獄の責め苦を受ける《もの》は一体何なのかね?

――成程。地獄の責め苦を受けるのは必ず《吾》でなければならぬか……ふむ。それが、お前の言ふ「卑怯者」の完璧なのか、成程ね。ところで、一つ尋ねるが、今、何故に地獄の復活なのかね?

――現世での《吾》がいづれも蘗の《吾》、つまり、「神の斧」で理由なくぶった切られた《吾》から芽生える蘗の《吾》が《存在》する事を保証する為さ。

――蘗の《吾》の《存在》の保証とは、へっ、詰まる所、お前にとってすら蘗の《吾》が《吾》である確信がないといふ事の表明ではないのかね?

――さうさ。何《もの》も《吾》が《吾》として《存在》してゐる確信はない筈だぜ。

――ならば、何故に地獄の復活なのかね?

――地獄では《吾》は徹底的に《吾》でしかないからさ。

――つまり、地獄において《吾》は連続してゐると?

――否、地獄においてもその極悪非道の限りを尽くした責め苦によって《吾》なんぞは簡単にぶち切れるが、地獄の責め苦をじっくりと味はひ尽くす為に一度ぶった切られた《吾》は、残酷にも地獄においては再び《吾》として繋ぎ合はされるのさ。

――つまり、現世において、「神の斧」に理不尽に理由なくぶった切られ蘗の《吾》として《吾》が《存在》するのは、《吾》が《吾》である事で、心底味はひ尽くさねばならぬ苦悶を緩和してゐるといふ事かね?

――それも一理あるが、《吾》は本来《吾》以外の《もの》に変容する事を渇望して已まない《存在》である故に、《吾》は「神の斧」でぶった切られる事で、新たな《吾》の到来を待ち望んでゐるのが本心なのさ。

――つまり、「神の斧」はMessiah(メシア)、若しくは、希望の別称かね?

――《吾》が理由なく「神の斧」でぶった切られる事が、希望と言ふのは何処かをかしいだらう。むしろ、「神の斧」でぶった切られる事は、《存在》の躓きの石とした方がぴたりとくるがね。

――《存在》の躓きの石かね? つまり、《存在》の躓きの石に躓いた《存在》は、既に《吾》とは違った何かに変化してゐるといふ事でいいのかね?

――否! 《存在》の躓きの石で躓いた《存在》、つまり、《吾》は、最早、そのままぶっ倒れたままに起き上がれずに、また、起き上がることは土台不可能事で、一度、その躓きの石に躓いてしまった《吾》は、起き上がる為に、躓いた《吾》を蜥蜴の尻尾切りのやうにぶった切って殺してしまひ、新たなる《吾》の出現を渇望するのが《存在》の、《吾》の本心なのさ。

――その《吾》を《吾》として保証する為に地獄の復活ね。ふはっはっはっはっ。ちゃんちゃらをかしい!

――しかし、蘗の《吾》といふ考へ方自体が独りよがりの独断でしかない。つまり、《吾》が《吾》である事は、地獄を復活する迄もなく、また、「神の斧」など理不尽な事を考へる迄もなく、《吾》は「先験的」に《吾》としてあるのさ。

――「先験的」? 《吾》とは「後天的」な《もの》ではないのかね?

――《吾》は何《もの》にも先立つ「先験的」な事柄さ。

――それぢゃ、これ迄、論じてきた蘗の《吾》は単なる吾等の夢想でしかないといふ事だね。

――否! 《吾》は、やはり、「神の斧」で理由なく理不尽にぶった切られた蘗の《吾》として此の世を生き延びるしかないのさ。

――何故にかね?

――《吾》が此の世に順応する為にさ。

――つまり、生存競争を生き延びる為には、使い古された襤褸屑の《吾》は切り捨てて、新たな蘗として芽生える《吾》に宿ってゐるに違ひない生命力を渇望する外に、此の世は生き延びられぬ、疑似地獄が現世なのさ。

――つまり、あるかもしれぬ蘗の《吾》の生命力を期待する外に、最早、《吾》は《存在》出来ぬ程に衰弱しちまったといふ事かね? へっ、そして、そんな羸弱な《吾》が《存在》してゐる現世が疑似地獄など、ちゃんちゃらをかしいぜ。はっきりと現世は地獄そのものとはっきり言明すればいいぢゃないか?

――此の世が地獄かどうかは、結局の処、主観の問題でしかなく、現世を極楽と看做してゐる輩も少なからずゐるのが、現実だらう。

――だが、お前は現世を来世と地続きの地獄として看做したくて仕方ない。違ふかね? そして、お前は、此の世の開闢したその刹那に地獄としての此の宇宙が誕生したと思ふ事で自己を慰撫したくて仕様がないのだらうが!

――自己を慰撫してはいけないのかい?

――否、そんな事はどうでもいい事さ。唯、お前はお前自身が此の世で一番可愛い《存在》と思ひ為したいだけなのさ。さうして、自己正当化する事で、「神の斧」で、ぶった切られた蘗の《吾》が芽生えるその非連続した《吾》を恰も連続した《吾》と看做したいだけなのさ。

――それで、別に構はぬではないか?

――ああ、さうさ。別にお前の勝手さ。しかし、ならば、今後、一切不変であって諸行無常な此の世の矛盾に対して不満を口にしちゃならないぜ。

――ちぇっ、私は今まで此の世に対して不満をぶちまけた事はこれっぽっちもないぜ。

――ふっ、その言ひ種の底流にお前の此の世に対する憤懣がぷんぷんと悪臭を放ってゐるのさ。

――しかし、此の世に《存在》する森羅万象で《吾》である事に満足してゐる《存在》なんぞ皆無だらう? それ故に、「神の斧」が《存在》し、《吾》が蘗の《吾》を芽生えさせる事で否応なく《吾》は変容し、さうして最良の《吾》でありたいと《吾》は絶えず渇望する《存在》であるのぢゃないかね?

――その最良の《吾》の出現の手助けが「神の斧」による《吾》の断絶かね? つまり、お前にとって《吾》が蘗の《吾》としてのみ此の世に《存在》するのは、《神》の御加護の為といふ事かね? 莫迦らしい!

――それでは、何故に《吾》は「神の斧」でぶった切られなくちゃならないのかね?

――それは、先刻言った通り、《吾》の冗長を阻む為さ。

――つまり、《吾》は「先験的」に冗長するやうに仕組まれてゐて、それ故に生存競争が《存在》するのだらうが、しかし、さうして現世で生き残った《存在》は、止めどなく自己増殖し、その結果、《吾》は何《もの》にも代へ難い《存在》へとのし上がる筈だが、しかし、《神》はそんな《存在》の足を掬ひ、「神の斧」で《吾》をぶった切る。それは一体全体何なのかね?

――それは《神》がそもそも此の世の森羅万象が気に食はぬからだらう。

――ちぇっ、《神》が此の世の森羅万象の《存在》が気に食はぬとは――。ならば、何故に《吾》は此の世に《存在》するのか!

――詰まる所、そんな事は自分で考へろ、と、《神》は言ってゐるのさ。

――そして、《神》は「神の斧」で《吾》をぶった切る?

――さう。さうして《神》は己が完璧と考へる《存在》の創出を願って已まないのさ。それは、また、《吾》にとっても願ったり叶ったりの事だらう?

――つまり、《存在》は、絶えず原点回帰、否、母胎回帰を繰り返す事で、何か極上の《存在》として此の世に屹立する完璧な《存在》を望むべく、此の世の開闢時から《吾》は絶えず蘗の《吾》になる事を仕組まれてゐるといふ事か――。ふはっはっはっ。

(完)

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小説『蘖』~12月15日迄公開~

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