思索に耽る苦行の軌跡

2016年6月27日 思索、詩、アフォリズム 0

 

基督の十字架ではないが、

誰にとっても背負ふべき十字架のやうなものがある筈であるが、

それを今更言挙げしたところで、

それは基督に敵ふ筈もなく、

虚しいだけであるが、

私には十字架とともに軛があるのだ。

十字架は生きるためには誰もが背負ふべき存在のその証明でもあるが、

軛は、己で課さなければ先づ、負はなければならないといふことでもない。

 

軛は自ら進んで付けるものなのだ。

誰に指図されたといふことでなく、

自ら進んで軛を付ける。

さうせずにはをれぬ存在と言ふ貧乏籤を引くものは、

どうあっても軛を付けねば己の存在に我慢がならず、

軛を付けた途端にさういふ輩からは落ち着くのだ。

精神衛生的に軛は鎮静の効能があり、

また、軛があることで精神はとっても楽なのだ。

この倒錯した存在は大勢の人にとっては哀しむべき存在なのかも知れぬが、

軛を付けたものたちにとって、精神が楽なのは常識なのだ。

しかし、十字架とともに軛を付けた

この倒錯した精神構造を持つに至った経緯を知るものは、

しかし、それのユーモアが解らぬ輩にはその存在の皮肉が解らぬ筈で、

ここは、軛を付けた輩を軽く嗤ふくらゐの度量がなければ

世界がお前を嗤ふと言ふものだ。

 

一方で世界が科学にぶんどられたと哲学者が慌ててゐるという内容の本を読んだのだが、

確かに数学で記述される世界は既に哲学者が語る「世界」とはずれたものに違ひなく、

確かに数学により世界の記述の仕方へと変貌したが、

しかし、科学的に記述された世界は世界の一様相でしかなく、

別段哲学者はそれに危機感を覚える必要はなく、

言語で世界を記述する覚悟が必要なのだ。

徹底して論理的な言語で世界を記述することが今も尚哲学者には求められてゐる筈で、

論理的な言語の範を数学に求めたところで、哲学者は科学者に世界記述は敵はぬのだ。

 

何故こんな話をするかと言ふと、哲学者と言ふものは

数学に対峙する言語での世界を語る術を見つけると言ふ軛を課せられてゐるのだ。

 

そのやうに軛は何処にも転がってゐて、

それを付けるも付けないもその存在自体の問題で、

軛が楽の別称なのだ。

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