正月や冥途の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし

正月や冥途の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし

 

ぢっと瞑目しながら

一休宗純の正月に杖の頭に髑髏を設(しつら)へて

「ご用心、ご用心」と叫びながら町を練り歩いたその思ひに

共感を覚えて仕方がない私は、

後、何回正月を迎へるのかと思ふと寂寞たる思ひが胸に湧き上がるが、

どう足掻いたところで

二百回の正月は迎へられず、

さうして毎年正月を迎へる度に、

死へ一歩一歩と歩を進めてゐることを痛感する私は、

さうだからこそ殊更に正月を寿ぐ。

とはいへ、私は正月を寿ぐとは言っても

餅を喰らふのみで、

つまり、日常生活に神聖な餅を喰らふといふことで「力」を、

即ち、神通力を得ることのみで満足なのである。

餅を「力」の源とした先人の知恵には感嘆をし、

例へば餅が入ってゐる蕎麦を「力蕎麦」といふそれは

とっても頓智が効いてゐて風情があり、

また、食べ物に対しての歓びに溢れ、且つ、食べ物が神聖たることに対しての恭しさがある。

死へと一歩一歩と近付くことを実感するそんな正月気分には、

神通力たる餅を喰らって

生き延びることを寿ぐその風俗に、

一休宗純の風狂がぴったりなのだ。

 

正月や冥途の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし

 

この一休宗純の歌を以てして正月を寿ぐ私は、

百回目の正月を迎へられるかは知らずとも

それは正しく他力本願故の仕業であるが、

しかし、毎年、これが最期の正月と思ひ成しながら、

だから殊更に正月を寿ぐ。

 

しかしながら、私は正月を寿ぐことで、

安寧を得てゐるといふのか。

仮にさうならばその安寧は何処から来てゐるのだらうか。

多分、寿ぐことは生を寿ぎ、死を寿ひでゐるのだ。

正月を寿ぐといふことは生死を共に寿ぐことである。

そんなことをつらつらと思ひながら私は瞑目し、そして、歌を詠む。

 

死を知るにそれを寿ぐ正月に餅を喰らふや胸渺渺と

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