媚びるもの

 

重重しき犬の骸を泣きながら抱き抱へたときのやうに

そいつはおれの心の間隙を縫ふことを得意としてゐて、

何とも厄介な代物に違ひないが、

そいつの媚び方が大嫌ひなおれは、

そいつの気配を感じた刹那、

有無も言はずに一撃をぶっ放す。

さうして飛び散った肉片の一つ一つに

唾を吐きかけては悦に入るのだが、

その媚びるものは死臭が何時まで経っても消えぬやうに

肉片と化したとはいへ、

さらに老獪におれに媚び諂ふのだ。

それが嫌でおれは一撃をぶっ放すのであったが、

媚びるものはFractalな存在で、

小さな小さな肉片にならうが、

媚び入る様は何ら変はる筈もなく、

更に酷いことにそいつは

おれの心のもっと小さな間隙を縫って潜り込んでくるのだ。

それは大好きなワーグナーの歌劇を聴いてゐるときのやうに

おれの心に妙に纏はり付き、おれを翻弄してはおれを錯乱させ、

気付けばおれはおれを思ひっ切りぶん殴ってゐて

おれはこの手でおれを撲殺しようと徹底的にぶちのめしてゐるのだ。

それはおれといふ存在がこれまで以上に不浄の存在として相転移し、

おれ自体が媚びるものへと完全に転化した証左であり、

さうと解れば、おれはおれの抹殺を試みるのみである。

しかし、それは悉く既(すんで)の所で何時も失敗に終はり、

おれはおれ自身媚びるものとして生き存へるのだ。

何度さうして死を免れたであらうか。

生き存へる度に、おれはおれに対する憎悪を深め、

日日もって行き場のないこの感情をして、

只管、己を虐めては自己悦楽の中で憎悪に溺れ、

仕舞ひにはおれは何に対して憎悪してゐるのかさへ解らなくなり、

さう煙に巻く媚びるものの遣り口は、

おれをして世界から疎外させるのだ。

さうなるとおれは遂に行き場を失ひ、

行き場を失った悪感情は、全的におれに向かって飛びかかるのだ。

さうして取っ組み合ひの喧嘩を始めるおれとおれは、

死闘の末におれを見失ひ、

地に斃れて、それまでに斃れた死屍累累のおれの骸をぼんやりと眺め、

何を思ふのかおれはおれの死体に齧り付くのだ。

「Cannibalism(カニバリズム)!」

との声すら上げる気力もないおれは、

おれを喰らってはまた、生き存へてしまふのだ。

この悪循環を断ち切るには死を以てしてしかあり得ぬのであるが、

どうしても生に縋り付くおれのこの羸弱な心は、

遂に死にきれぬままに此の世を彷徨ひ歩く。

それはまるで火の玉を引き連れた幽霊の如くなのである。