異端

 

時代を切り拓くのは何時も異端者である。

こんなことは今更言はずとも誰もが解ってゐることと思ふが、

それでも敢へてさう叫ばずば、

日常は常に反復の繰り返しであり、

其処には日常に波風を立てる差異は見られぬ日常が続くだけなのだ。

とはいへ、異端であることは常にどうしようもない不安に苛まれるが、

それに堪へ得るもののみが異端者であり、

それに堪へ得ぬものは端から異端者ではなく、

それらは自らを仔羊と称し、

今も尚、基督に己の任を委ねて、

それで下らぬ安寧を得てゐるのをいいことに、

のうのうと暮らして基督を仔羊に呪縛させることに敢へて気付かぬ振りをしてゐる

残酷な神殺しの殺神者の一味であり、

其の手は神の血で血塗られて

ぽたりぽたりと神の血が滴り落ち

生きる為のみ殺生をする真っ当な生き方をするものとは

真逆の、否、それは地獄行きが既定路線の神殺しの主犯格なのだ。

神との主従関係はその端緒から逆転してゐて

民衆は、基督を殺した民衆は、

神に仕へるものではなく、

顎で神を使ったお気楽な御主人様であり、

そいつらは何よりも己の安寧のみを追求するのに血眼で、

基督の苦悩、つまりは今も磔刑に処されたままの姿でしか

思ひ描かうとしない、余りに残酷な仔羊共は、

神の血がどうしても必要だったに過ぎぬのだ。

血の結束。

さう、ドストエフスキイの『悪霊』の登場人物達を例にすれば、

ピョートル・ヴェルホーヴェンスキイがシャートフの血を必要としたやうに

集団Lynch(リンチ)で神を殺すことが、

唯一、大衆を結びつけることが出来る最後の術であり、

それしか最早残されてゐない基督者達は余りに残酷でありながら、余りにも哀れなのだ。

これは基督者に限った話ではなく、

宗教で神を祭り上げてゐる宗教は全て神を血祭りに上げての神の血での結束でしかなく、

もう、其処から

――一抜けた。

と、異端者として生きるのみで、

それが神に対する心からの懺悔なのだ。