ad
0
(0)
己の存在を意識するその端緒は
何よりも主体が不快を感じてゐなければならぬ。
つまりは不快は存在に先立つのである。
己が不快であることで、
初めて己は
此の世に存在してしまってゐる業を意識し、
さうして己は現世でしか最早存在出来ぬといふ断念を以てして、
吾は此の世に存在してゐる事を
黙して受け入れる事がやうやっと出来るのだ。


例へば十六夜の月下の吾の影が、
何処かしら退屈に見え始めた時、
その影は、
吾の影である事を不快に感じ、
それ故にその影は己の事を自己認識してゐるに違ひない。
その時の一抹の寂しさと可笑しさは、
名状し難き感情となって押し寄せ、
それはまた、影の側も同じ事で、
月下の影が自律的に蠢くその時、
吾は、
――ぶはっはっはっはっ。
と、哄笑する外ないのだ。


不快が存在に先立つその哀しみを知ってゐるものは、
絶えず吾は吾である事を不快に思ひながら、
吾は吾からの脱皮を試みつつも、
吾は吾に以前にも増してしがみ付くのだ。
その吾と呼ばれるものは肉体に先んずる念であり、
とはいへ、しがみ付いてゐるものは肉体でしかないのであるが。
さうやって二律背反する吾の吾に対する複雑な感情は、
全て不快により始まる。

How useful was this post?

Click on a star to rate it!

Average rating 0 / 5. Vote count: 0

No votes so far! Be the first to rate this post.

(Visited 2 times, 1 visits today)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です