本当は得体が知れずに内発してゐるのかもしれぬ《杳体》――これは埴谷雄高の「虚体」では存在の尻尾すら捕まへられぬと思ひ至った私が、存在の一様態として考へ出した造語で、杳としてその本質が解らぬ存在の未だ見果てぬ有り様を暗示する存在形式としての杳体である――としてとか、
それとも、形相のみがはっきりとしてゐただけの
窈窕の女性の幽霊に誑かされて
性欲の捌け口を求めただけのことなのか。


その女性との蕩とろけるやうな愛欲の日日は、
確かに存在した筈である。
彼女の匂ひ、肉体の感触、愛液の匂ひと味など、
鮮明に記憶に残ってゐるのであるが、
では、それが、真実であったのかは私の記憶に対する信頼性に依るが、
記憶が真実と思ってゐるのは私のみで、
これを例へば誰かに話したところで、
半分嘘が混じった私の誇大妄想としてしか受け取られず、
他者にとってそれは真実にならぬのだ。


ならば、これは徹底して内部の出来事として
私は内部に隠匿しなければ、
真実性は、若しくは確実性は零れ落ちてしまふ不安に駆られる。


ゆらりと飛び行く記憶の精が記憶を薄れさせ、
ほら、それが鮮烈な記憶であればこそ、
記憶は自分に都合よく捻ぢ曲げられ、
記憶で出来たイデーの一王国は崩壊の萌芽を抱え込むリスクに晒され、
やがては霧散する運命なのだ。
――あっは、私の存在の根拠は絶えず顫動してゐて、その印象は哀しい哉、薄れ行くのだ。