固有時の内実を見れば
その内部で固有時は絶えず過去と現在の「私」といふ意識の往還であり、
その往還が時折、ヒョンとあらぬ方向へと飛んで、
思ひもかけぬ未来が拓ける事があるのは、
主体と呼ばれるものであれば何ものも経験済みの事だらう。
確かにデカルトのいふ通り吾は絶えず考へてゐて、
その考へ方が絶え間なき「私」の過去、現在、未来、つまり、去来現こらいげんの往復であり、
考へれば考へるほどに吾は「私」の内部に無限に拓けてゐて宇宙をも呑み込み
其処では虚空が映える滅茶苦茶な時空間が存在してゐるのは、
これまた、誰もが認識してゐて、
その時空間があるお陰で吾は考えてゐる時、
不可思議な自在感に囚はれるものなのだ。


その時空間ではそもそも時間が一筋縄では流れず、
去来現がある種平面上に俎上されたかのやうな具合で、
それはポップコーンが爆はぜるやうにして
出来事の事象が「私」に迫ってきて、
その出来事の迫り来るき方は
ポップコーンの唐黍もろこしの種のどれが爆ぜるのかは予測不可能なやうに
蓋然性を持って過去に吾に起きた或る出来事が時間軸から解放され
突然、現在の吾に迫り来て、
考への進む方向の暗示を与へてくれたり、生き方に多大な影響を与へたり
過去といふ時間軸の串刺しから解き放たれた記憶は、
時間の連続性を気にせずに
時系列としては全く正しくないのであるが、
出来事はガラガラポンとかき混ぜられて
出来事は一度超主観的な判断で腑分けされるやうに
或る親和性で以て纏められるものなのだ。
これがもし行はれないとするならば、
独創性など生まれる筈もなく、
つまり、「私」の内部の時間は正まさしく渾沌でしかなく、
また、渾沌としてゐなければ、
未来を知る由もなかったであらう。
詰まる所、渾沌が多様な生の坩堝なのだ。
そして、吾は内部に渾沌を抱へてゐるものなのだ。
一刻を生き延びるために。

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